黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     三

「いいかしら、美帆。今回の件は特殊だからしっかり状況を飲み込んでもらうわ。あとちょっと作業も多いから晶を手伝ってくれるとありがたいんだけど」
 中岩を見送り、茶館は支度中の札を出したまま、綾弥子らと三人、顔を突き合わせての事前打ち合わせとなった。
 綾弥子は柔らかく「手伝ってほしい」と言うが、美帆は拒絶すると分かっているはずだ。それでも口にするという事は、綾弥子は本気で美帆を取り込もうとしているのか?
 美帆は問う事もできず、拒絶の態度で嫌だと訴えるしかなかった。
「率直に言うわ。今回の目標は、五名。中岩美津、中岩の秘書の木原佳代(かよ)、田殿元介、田殿の側近、道岡と藤田の二名よ」
「ま、待ってください。それって! 一度に五人も殺すって、事ですか?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
 美帆は喉に手を当て、息を詰まらせながら激しく首を振った。恐怖で引きつった表情で、今までにない拒絶の意を見せる。
「い、イヤです! 意味が分からない。どうして中岩さんを利用したからって、中岩さん本人や他の人まで手を下さなきゃならないんですか? そんなの意味が分かりません。分かりたくありません!」
 彼女が関わって来て以来、初めての多人数の殺人予告に、美帆はすっかり竦み上がってしまった。それまでは自分が綾弥子たちを正すのだと言い聞かせ、実際には実行できずに運命に流されていたが、今度の多人数殺害には、正義感よりも何よりも、感情が殺意を、凶行への無理やりの同行を、強く強く拒絶していた。
 嫌々と騒ぐ美帆に、綾弥子は指を突き付ける。額にコツンと当てられた綾弥子の指先の冷たさに、美帆は騒ぐのをやめた。彼女の長い爪が、まるでナイフの先端であるかのような錯覚に陥っていた。
 彼女が指を動かせば、自分も殺される、と。
 綾弥子はふっと妖艶な笑みを見せ、紅を差した唇を開く。
「どうして周囲のモノまで粛清するのか──それは全部“汚い”からよ」
「そ、それって、綾弥子さんの判断ですよね? 綾弥子さんが勝手に思ってるだけですよね? そんなの……身勝手すぎる」
 震える声音で否定するも、綾弥子は含みのある声で笑うだけ。美帆は食い下がる。
「汚いモノを生かしておいても、世の中は綺麗にならないのよ?」
「それでも人を殺すって悪い事です! あたし、絶対イヤです! 綾弥子さんたちも、もうこんな事、やめてください!」
 今までにないほど、美帆は強い拒絶を示した。恐怖より間違いを正したいという感情が上回ったのだ。

「美帆。どうしても嫌?」
 涙ぐむ美帆に、晶が静かに問い掛ける。その隣で、綾弥子は意外そうに晶を見つめていた。
 確かに彼が、こんな質問をしてくるなど今まででは考えられなかった。それほど普段の彼は自分にも他人にも無関心なのだ。

「だって、そんなに沢山……晶くんは自分が汚れるのってイヤじゃないの?」
「嫌。だから触らない」
「直接触れなくたって、ナイフで斬っても同じ事だよ! それに五人も一度に相手できるの? そんなに沢山の命を奪って平気なの? あたしは絶対手伝わない。絶対イヤ!」
 嫌々と首を振る。そんな美帆に、綾弥子は半ば呆れた口調で語り出した。美帆の考え方とはまるで違う、彼女なりの信念は揺らぐ気配が微塵もない。
「みんな汚れてるのよ。汚いの。中岩は、自分たちの団体を後援してもらうために、田殿に女を売ったの。体で懐柔したのよ。そして田殿は、中岩を貪っただけで実際は自分の事業を成功させるために中岩の団体を利用した。女性に応援される事業という看板があれば、世の女性たちが田殿の事業に大きく関心を示すものね。そして女性たちの周囲にいる男性の目も、田殿の事業の方へと向くもの。事業が成功しさえすれば、中岩の団体に所属する女性たちを優先的に雇うからと、嘘に塗れた口車に乗せて、女性たちを次々食い荒らしたわ。一夜の情事で自分たちの地位が確立されるならと、貞操を傷付けられた女性は多数いる。そんな田殿を許せて? 木原は田殿の側近たちと無理やり関係を持ったわ。中岩の行動で、田殿が言う事を聞かなかった場合に備えてね。そうして中岩の団体の後援を迫った。ふしだらな乱交騒ぎのようにあちこち入り乱れて、この五人はとんでもなく汚く穢れているの。生かしておく価値、どこにもないわ」
 綾弥子は淡々と、男女の性が絡む醜い関係を暴露しながら、中岩の持ってきた打莉杏の花を握り潰した。花弁がパラパラと、彼女の足元に舞い落ちる。
 あまりに生々しい男女の情事を聞かされ、美帆は両手で耳を塞いて、紅潮した顔を俯かせる。男女の関係にまだ疎い少女には刺激が強すぎた。
「これでもまだ、彼女らを説得したいとでも?」
 綾弥子が迫る。美帆は僅かに顔を上げ、前髪の隙間から綾弥子を見つめた。
「そういうの、あたしはまだよく分かりません。でも……お互いがお互いを利用しあって、裏切りあったっていうのは分かりました。それでも、あたしはもう晶くんが人を殺すのを見るのは……イヤです」
 それまで穏やかで妖艶な笑みを浮かべていた綾弥子が、急激に目尻をつり上げて、強くカウンターを叩いた。

「晶、晶、晶! 最近のあなた、何でも晶なのね!」
 ビクッと体を竦ませ、美帆は綾弥子の叱責を全身に浴びる。確かに少し綾弥子と距離を置こうと、ぎこちない行動になっていたかもしれない。しかし晶の気を引こうというつもりはなく、この茶館内部で頼れるのが晶だけだと、無意識にしていた行動だった。それを咎められては、美帆は黙り込むしかない。
「あなたは私と晶を引き裂こうとでもいうつもりなのっ?」
 あまりに極端な利己的解釈で、綾弥子は憤怒する。美帆の言動が、彼女の我慢の限界を超えてしまったらしい。
 美帆は彼女の怒りを間近で直に感じ取り、ビクビクと怯える小動物のようになる。
「そ、そういうつもりで言ったんじゃ……」
 綾弥子の形相が鬼のようで、美帆の声が震えている。
「晶、どうなの!」
 怒りを露わにする綾弥子を、晶は冷ややかな目で見やる。そして興味が無いといった様子で、傍にあった茶碗を手にし、布巾で磨き始めた。
「別に」
 彼女の憤怒を一身に浴びているのに、彼の様子は普段と何一つ変わらない。恐怖や畏怖といった感情がないようだった。いや、無いのかもしれない。“恐れ”を知らないまま、操られたまま育ってきた可能性がある。綾弥子の言いなりの晶ならば。
「晶は私が必要じゃないというの? 何も役に立たないこの子の方が大事なの?」
 綾弥子が見苦しいまでに極端な選択を彼に迫る。
「別に」
 やはり彼の答えは端的だった。
「晶!」
 綾弥子の怒声は悲鳴にも似ていると、美帆は感じた。晶に見捨てられれば全て終わってしまうゆえに、しつこく怒りを表しながらも食い下がる。そんな様子に。
「僕は僕。誰にも縛られない」
 晶は綾弥子の問い詰めにも冷静だった。そしてサイフォンから、飲み頃を逃してしまった珈琲を流しに捨てる。
「時間を置きすぎた。もう苦くて飲めない」
「晶、私の話を聞いてるの? こっちを向きなさい!」
 イライラとカウンターに指を打ち付ける綾弥子。
「僕は誰にも縛られない。そう答えたはず」
「もういいわ! 勝手になさいよ!」
 小さく舌打ちし、彼女はカウンターの椅子を蹴って店の二階へ姿を消してしまった。
 美帆は綾弥子の様子に怯えつつも、綾弥子がこの場から退場して、ホッとしている自分に少々嫌気がさした。自分も、なんて利己的なのだろうと。
 そのまま控えめに晶に問い掛ける。
「あの……晶くん? あたし、ちょっと晶くんに甘え過ぎてた? だから綾弥子さん、怒っちゃったの? 綾弥子さんは今まであたしによくしてくれたのに、あたし、裏切るような事をしちゃったのかな」
 なんとか綾弥子を立てようと口にした言葉だったが、晶は冷静に言い放った。
「店。今日は休む。美帆と二人じゃ無理」
 綾弥子などどうでもいい。自分は自分。そう言い切った晶に対し、美帆からの好意は少し変化した。自分も見捨てられるのかもしれない、そう思ったのだ。それほどまでに、自分の心は晶にすがっていたのかと、少々驚きもした。
 しかし今はそういった事を問う時ではない。綾弥子不在の今、店の経営に関しては、店主である綾弥子の弟である晶の指示に従うだけだ。
「え、あ……はい」
 あまりに淡々とした、物怖じしない晶にも、言い知れぬ圧力や恐怖のような感情を抱き始めつつ、美帆は閉店準備を始める。
 晶や綾弥子とは、同じ場所で働く仲間ではあるが、もう少し距離を置いたほうがいいのかもしれないと、心の奥底でぼんやりと思った。綾弥子も晶も、あまりに浮き世離れしていると、そう感じていた。



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