砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国、ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この者との出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ、過去から連なる歴史と秘密が紐解かれていくのだった。

なろう版

   立ち止まる事、振り返る事

     1

「彼女の名前はシーア。シーア・セム。おれが初めて好きになった女の子。初めて心から信じる事ができた人。そして……」
 シーアは目を細め、墓石を撫でる。
「……おれの全てを愛してくれた人」
 カルザスは墓石の前に跪き、黙祷する。
 墓石に刻まれた文字は掠れているが、微かに「シーア・セム」と読み取れる。
 シーア・セムがあの少女、そして俺たちの目の前にいるのがシーア・ティリだ。セムが生きておれば、元暗殺者のシーアは本名を名乗り、あの少女はティリ姓を名乗っていたのだろうが、セムはもう、この世にない。
「おれが暗殺者でもいいって言ってくれたんだ。俺のために生きて、ずっとおれの傍にいてくれるって、言ってくれたんだ」
 懐かしむように目を細めるシーアからは、暗殺者としての狂気も、詩人としての偽りの明るさもない。
 ただ、穏やかに遅い時間の流れに身を任せている。
 奴と出会ってから一度も見た事のない、安らぎに満ちた表情。死しているとはいえ、愛しい女の傍におるというだけで、これほどまでに穏やかな気持ちになるものなのか?
「この町にいた頃……まだ暗殺者として新米だった頃、仕事をしくじって、役人に追われていた時、偶然通り掛かったシーアと鉢合わせしてさ……顔も見られたし、血の付いた短剣も見られた。だからこいつも殺すしかないって思ったんだ。でも、できなかった。躊躇っていたら……シーアは役人からおれを匿って逃がしてくれたんだ」
「シーアさんでも……躊躇う事があったのですか? その頃から、自分の境遇に疑問を抱いていたとか」
 カルザスが問うと、シーアは静かに首を振る。照り付ける日差しのため眩しそう手を額の上に翳し、再び墓石を見下ろす。
「違うよ。おれはシーアに惚れたんだ。一目惚れってやつ? だから殺せなかったんだ。ま、その時は殺さなきゃいけないのにできない、それなのに気になるって、なんでそんな気持ちになるのか分かんなくて、あとから、おれはこいつに惚れたんだって悟ったんだけどね」
 縋るかのように墓石に身を預け、シーアは目を閉じる。
「シーアもおれと同じ孤児だったんだ。暗殺者の頭目に拾われたおれと違って、スラムにある貧乏孤児院の前に捨てられてたらしい」
 カルザスを見上げ、シーアは微かに頬を赤らめる。
「……惚気(のろけ)て悪いね。でもさ、おれとシーアは本気で愛し合ってた。お互い、離れたくないって思ってた。雪の降る国へ行って、自分たちみたいな身寄りのない子供を引き取って、孤児院を開くつもりだった。ずっと一緒にいようって……誓いあったんだ」

 セムが雪というものに何を思ったのか、今では知る術(すべ)はない。
 俺の想像だが、白く汚れなく降り積もる雪の中でこの者と共に暮らす事により、暗殺者であるシーアの罪を清めさせようとしていたのではないか?
 どこの国だったか忘れたが、流水で身を清める事によって、過去に犯した罪を洗い流すという風習があると聞いた事がある。そのような事で免罪になるとは思えんが、要は気持ちの問題だ。
 シーアも、全身に浴び続けた血を雪で洗い流したいと言うておったしな。

「でもシーアは死んだ。殺された。ただ寡黙に、周囲に従順に、この町の片隅でただひっそりと生きていたシーアに、殺されなきゃならない理由なんて何もなかったんだ。それなのに……」
「先ほど神父様に、自分が殺したと仰ってましたが……」
 カルザスの言葉に、シーアは口を閉ざす。伏せ目がちな眼差しで、ただ地面を見つめている。
 また余計な口を挟みおって。反省という言葉を知らんのか?
「すみません」
「……おれという暗殺者……一時の気まぐれで拾われ育てられた養子とはいえ、頭目のただ一人の息子。同時に優秀な部下であるおれを操るには、シーアという女は邪魔だった。女に気を取られ、いずれは仕事をしくじるだろうってな。だからシーアは殺された。おれが惚れた女だから、おれたちとは住む世界の違う女だから。ただそれだけの理由で殺されたんだ。それってつまりさ、おれがシーアを殺したのと同じなんだよ。おれと出会わなければ、おれが惚れなければ、おれがいなければ、シーアは死なずに済んだんだ」
 墓石を撫で、シーアは重苦しい吐息を吐き出す。悔恨や苦渋といったものがシーアを押し潰そうとしている。
「護ってやれなかったんだよ、おれは。護ってやるって誓った唯一の人を、護ってやれなかったんだよ」
 カルザスは無言のまま、遠慮気味にシーアを見つめる。何と声を掛けてやればよいものやら……。
「生きるべき人だったんだ、シーアは。死ぬのはおれの方だった」
 生きるべき者、そうでない者という基準を定める原因は、シーア・セムという少女の存在だったのか。

 生きるべき人とそうでない人がいる。
 自分は一人で生きていく。

 たびたび呟いたそれら言葉が辛そうでならなかったのは、セムの存在がこの世になかったからだ。セムさえ生きておれば、シーアはその言葉を口にする事はなかったのだろう。いや、暗殺者としてのシーアすら存在しなかったのかもしれん。それほどまでにシーアの人生に影響を与えたのは、非力で繊細な少女だった。
「……シーアを殺したあいつはおれが殺した。だけどまだ殺し足りないんだよ。何十回、何百回殺したって、おれの気が晴れる事はないんだ。地獄の果てまで追い掛けて、何度だって殺してやるよ、あいつだけは」
「シーアさん、あの……その、すでに亡くなっている方を無闇に冒涜するのは……」
 シーアはじろりとカルザスを睨む。
「あんたに……何が分かる」
 カルザスを責めるような口調ではない。どちらかといえば自虐に似た呟きだ。
「……おれの全てだった人を……部下を使って陵辱したんだ。そしておれの目の前でシーアを、一番惨たらしい方法で殺したんだ、あいつは……」
 シーアは自らの両腕を抱き、俯いて怒りを堪える。
「おれを自分の情夫代わりにするだけなら、まだ我慢してたよ。でもシーアだけは、誰にも触れさせたくなかった。なのにあいつは抵抗する手段を何も持たないシーアに、下衆共をけしかけて弄ばせ……殺しやがったんだ」
 唇を噛んだせいか、シーアの顎につっと赤い雫が零れる。それをシーアは手の甲で拭った。
「……じょ、情夫にするって……あの……」
「……おれはあいつにとって優秀な部下であり、ただ一人の息子だった。そして……あいつの情夫だった。前に言っただろ、女として育てられたって」
 ……セムを殺したというのは先代頭目か?
「前……頭目さん、ですか?」
「ああ。あいつを殺したのは、おれのシーアを穢したからだ。情夫にされようが、手足をもぎ取られようが、おれ自身がどうなったって、シーアさえ無事なら良かったんだ。シーアさえ……」

 カルザスは完全に沈黙した。言葉というものを忘れてしまったかのように、口を開く事ができなかったのだ。
「……この墓の下にはさ……シーアの遺体はないんだ。あるのは……奇跡的に残ったひと房だけの髪と血塗れの服だけ。肉も骨も……何も残っちゃいなかったんだ。おれの目の前で死んだのに、シーアの体だったものは、何一つ残っちゃいないんだ」
「ご遺体を……焼かれたのですか……?」
 シーアが強く首を振る。そして拳を地に叩き付けた。
「食わせたんだよ! 虫に! 殺されかけたけど、でもまだ息があるのに、カブレアのひしめく穴に落として、生きたまま餌にされたんだよ!」
「……っう」
 カルザスは思わず口許を抑え、胸から込み上げてくる嫌悪感と嘔吐感を堪える。俺も背筋がゾクリと震えたような気がした。
 カブレアか……生命力の強い雑食の虫だが、ウラウロー南部では信仰の対象とされる虫だ。確かにあの虫の強靭な顎ならば……人であっても餌とする事ができるだろう。
「シーアの遺体すら、あいつはおれに触れさせなかったんだ。今生(こんじょう)の別れすら、おれには与えてられなかったんだ」
 パキリと小さな音が聞こえた。墓石に爪を立てていたシーアの指先から血が滲んでいる。力を込めていたために、爪を割ったのだ。
 暗殺者の先代頭目とは、相当狂人染みていたようだ。そのような惨たらしい凄惨な真似を平然とやってのけるのだからな。聞いているだけの俺も、はらわたが煮えくり返る思いだ。怒りを通り越して気分が悪くなってきた。
 我が身以上に大切にしていた女を弄ばれ、殺され、その亡骸すら眼前でいたぶられたシーアの激昂は計り知れん。

「……おれはあいつを殺した。殺して、切り刻んで……それでも、おれの気はすまない。あいつだけは、何度殺しても殺し足りないんだ」
 怒りにまかせて育ての親を殺したのか。しかし先代頭目に同情などせんぞ、俺は。
「あいつを殺(や)ってしばらく放心してたけど、それでも何か残ってないかと、カブレアの穴でシーアの髪と服の切れ端を見つけて、泣いて、叫んで、おれは自分が壊れていくのを感じてた。それからふと、シーアの通っていたこの教会の事を思い出してさ……たったひと房だけしか残ってなかったシーアの髪と服の切れ端、それから踏み躙られたセルトを抱いてここに来たんだ。神父は何も聞かずに二人を弔ってくれたよ。おれも何も言わなかった。だから神父はおれの正体を知らない。知ってるのは、シーアを殺した奴をおれが殺したって事だけだ」
 爪の割れた指を嘗め、シーアは首を振る。
「おれはシーアを護ってやれなかった。俺はただの一度もセルトを抱いてやれなかった。悔やんでも悔やんでも、悔やみきれないよ」
 ん? 今シーアは、俺の事を呼んだのだろうか? セムの名と共にセルト、と口にしたが……。
「セルトさんって仰いましたけど、それって僕の中のセルトさんの事でしょうか?」
 シーアは首を振り、隣の墓石を指差す。その墓石には「セルト・セム」と刻んである。
「セルトは……おれとシーアの子供だよ」
 憂いを帯びた眼差しで、シーアはぼんやりとセムの隣の墓石を見つめている。
「シーアは捕らわれて、腹を切り裂かれたんだ。まだ人の形すらしてなかったセルトも、シーアの腹から無理矢理引きずり出された。親であるおれたちの顔どころか、ただの一度も外の世界を見ずに、あいつに殺されたんだよ」
 セムは新たな命を宿しておったのか。俺が夢で見た時、子を身篭っておるようには見えなかったのだが……。いや、俺が見たのは愛を確かめ合った時だ。シーアとセムが情を交わらせたのは、おそらくその後の事だろう。
「あいつの操り人形だったおれは、あいつが死んだ今でも……操り人形のままなんだよ。誰かを殺せと命じられるままに、おれは血に餓えた魔物になる」
 伏せ目がちに、シーアは囁くように呟く。目一杯の自虐を込めて。
「先代頭目さん……確かに、どこまでも追い掛けて殺したくなるような方ですね。僕、人に対してこんなに怒ったの、いえ、憎しみを抱いたのは初めてです」
 温厚なカルザスがわなわなと手を震わせ、剣の柄を強く握っている。この男でも、怒りを露にするという事があるのだな。
「すみません。僕はシーアさん……えっと、シーア・セムさんの事はよく知りませんけど、ちゃんとお祈りさせていただいてもよろしいですか?」
 セムの墓石の前に屈み込み、神妙な面持ちで目を閉じるカルザス。そんなカルザスの様子を見て、シーアは表情を和らげた。
「……カルザスさんに祈ってもらえたら、シーアとセルトもやっと落ち着いて眠れると思うよ。暗殺者だったおれが祈るより、安らかに眠れそうだし」
「そんな事はないですよ。愛する人に、亡くなった後も愛されるって素晴らしい事だと思います。きっとセムさんも喜んでくださっていると思います」
 シーアは目を細めてカルザスを見つめ、小さく頷いた。
「……おれはこの先もずっと……シーアだけを愛し続けるよ。セルトも、ね」
 墓石に頬を寄せ、シーアは目を閉じる。先ほどと同じ、安らいだ表情へと戻っておる。

「……カルザスさんの中のセルトさん……ごめん。おれ、自分に対する欺瞞でセルトと同じ名前をつけちまったんだ」
 ──構わん。お前がよいならば、この先もこの名を名乗らせてもらってもよいか?
「シーアさんにご了解いただけるなら、これからもセルトさんのお名前を頂いたままでいいですかって仰ってます」
「うん、ありがと。そうしてくれるとおれも嬉しいよ。おれがシーアの名前を名乗って、セルトさんがセルトの名前を名乗ってくれれば……二人はずっと生きてるって思えるから」
 死した者と同じ名というのも奇妙な感覚だが、懐かしさのようなものを感じたのは事実だ。案外、俺の実体はセルトという名で呼ばれておったのかもしれん。
 ふっ、そんな都合のいい事など、ある訳がないな。
「シーアさんは、セムさんとお約束なさってたんですか? 雪の降る国に行くって」
「ああ」
「それじゃ、急がなくちゃいけませんね」
「……うん」
 日が傾き、風が出てきた。もう夜が訪れる時刻となっていたのか。

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