LOST PRINCE

「死を意識するなんて何度目だろう?」
スラムで育った少年フェリオは、腕の中で冷たくなってゆく少女を抱きしめながら、そう思う。

豪胆な女性マーシエとの出会いが、
スラムの孤児であったフェリオの運命を大きく変える。


   王子と僕

     1

 ジョアンとの勉強が休みの時、フェリオは王子が隠れている部屋へ頻繁に通うようになっていた。
 彼の異質な姿はやはりまだ慣れず、いきなり声を掛けられると飛び上がって驚いてしまい、そして彼に笑われるのが常となっていたが、彼から教わる直接的な、王族としての指南は、フェリオにとって実にためになる。そして今までの自分を変えるほどの多大な影響力を持っていた。
 それは嘘を本当にする、偽りの自信を身に付けるに至った。
 恐ろしく、大嫌いな、大勢の兵士の前でオーベルのフリをする。それが後々、スラムの孤児のためになると信じて、人生を賭けた嘘を貫き通す。
 オーベル王子の指導は、その意志を固めるための根性を身に付けるものだった。

 以前と同じく、ジョアンから体調を心配されて午後の指導が休みになった。
 フェリオは彼女が戻って来ない事を確認してから、こっそりとオーベルの部屋へと向かう。マーシエから預かった鍵を、錠前にそっと通す。カチリという音と共に、錠前は外れた。
「……オ、オーベル王子。フェリオです」
 パーティションカーテンのこちら側から声を掛けると、「入れ」というオーベルの横柄な声が聞こえた。
 カーテンの向こう側には、いつも通りの、生きている事が不思議な、頭部と臓器だけの異質な王子の姿。
「よう。今日も相変わらずへっぴり腰だな」
 クッションに載せられたオーベルの顔が笑う。そしていつもどおり、首から下の臓器には、ねっとりとした粘液質な血が絡んでいた。
「今日はどんな話をするかなぁ……」
 フェリオを品定めするように見ながら、オーベルは思案顔になる。
「おう、そうだ。いずれデスティンとも会うだろう。その時の対処かな。まぁ座れよ」
 そうだった。彼は兄王子と覇権争いをしているのだった。フェリオは思い出す。
 どうもこの隠れ家での生活は、あまりに外界から遮断されすぎていて、自分の立ち位置を忘れがちになる。
 フェリオはオーベルの向かいにある椅子に姿勢を正して座った。
「そんなお嬢様みたいな座り方じゃなく、もっと大仰に構えるんだ」
「は、はい」
 フェリオは背もたれに背を預け、軽く足を開いて反り返る用に座る。
「結構結構。でもその座り方で兵士の前に出るのは無しだ」
「そ、そうなんですか?」
「もっと威厳のある座り方ってのがあるんだよ。お付のメイドにでも聞きな」
 フェリオはコクコクと頷いた。
「最も、顔を見られたらアウトだから、薄いカーテン越しでの兵士との謁見になるだろう。なら形さえそれらしく見えてれば、顔は泣きっ面でも構わないぞ」
「て、手抜きはしません。僕、一生懸命オーベル王子になりきりますから」
「へぇ。結構いい根性してるじゃないか」
 笑うオーベル。そして臓器から滴る血。フェリオはまた気分が悪くなってきた。

 その時、ガチャリと表の扉が開いた。そしてパーティションカーテンを開いて、マーシエが室内へ入ってくる。
「表が開いてたからね。フェリオもいると思った」
 マーシエが隣に立つと、ぷんと、どこか鼻を衝く臭いがした。妙な不安に駆られてに彼女を見上げると、マーシエもフェリオの表情で何を言わんとしているのか気付いたのか、長い手袋を引っ張って困ったような表情になった。
「……あ、うん……フェリオ」
 マーシエは亜麻色の長い髪に触れながら、困惑した声を出す。
「……その……もう隠せないか。真実を言うけど、驚くんじゃないよ」
「いいのか、マーシエ?」
 オーベルが訝しげに聞く。
「オーベルに薬をもらおうと思って来たらフェリオもいたんだ。これだけ臭うんじゃ、もう隠せないしね」
 マーシエは小さく息を吐き出し、長手袋を外した。

「う……」
 フェリオは鼻と口を片手で覆う。そしてマーシエの腕を見て、喉の奥に酸っぱいものがこみ上げてきた。
 彼女の腕は腐敗していた。
 肉は例えようもないほど淀んだ色に変色し、ドロリとゼリー状に液化している部分もある。そして所々肉も筋肉も削げ落ち、血の染みた骨が見え隠れしていた。
「フェリオ。あたしの両手は腐ってる。もう原型を留めるのは限界なんだ」
「なるほど。使い古した溶液に漬ける程度じゃ、もう駄目って事か」
 オーベルは納得したような声音で言う。
 室内に充満する腐敗臭。恩ある彼女から発せられるものなので、極力平静でいたいとは思うのだが、その凄まじい臭気は我慢の限界を超えている。
 よくよく考えてみれば、彼女と二人で密閉された部屋にいる時、いつも嗅いでいた臭いだった。彼女が手袋をしていたお陰で『何か臭うかな?』程度にしか感じていなかったものだが、こう剥き出しにされると、改めてその臭気がとてつもなく臭いのだと分かる。
 そこにきてこの腐敗の度合いだ。少し摘めば、ごっそりと腐肉がこそげ落ちそうな状態になっている。
 マーシエはフェリオの様子を見て、自虐的に微笑む。
「あたしの腕はね。元々オーベルのものなんだ。先の戦であたしの腕は切り落とされた。オーベルは体に負傷はあったものの、手足は無事だった。だからあたしの腕として、自分の腕を魔術で移植してくれたんだ。だけどこんなに腐敗してきてる。もう仮の腕として動かすのも無理なんだろうね」
 腐敗した腕を見下ろしながら、彼女は長手袋を両腕とも外した。
「骨だけになっても動かすだけなら義手として問題はない。だが、肉を保存したまま手袋で隠すには限界があるんでな」
 フェリオは室内に立ち込める臭気に耐え切れなくなり、袖で口と鼻を覆った。それを見たマーシエは少々寂しそうな表情になるが、それでいいと言わんばかりにコクコクと頷いた。
「臭いだろ。そうしてなよ」
「マーシエ」
 オーベルがマーシエに目配せした。本来なら頷くか手を上げるか、何かアクションを起こしたいのだろう。
「よし。腐敗を遅延させる魔術の溶液を新しく作る。今までの物よりも効果が高いはずだ。フェリオ、悪いが手伝ってくれ」
「ぼ、僕にできるんですか?」
 魔術など、ド素人の自分に対しての突然の抜擢に、フェリオは目を白黒させる。
「俺が指示するものを混ぜあわせるだけさ。簡単だ」

 手足がないオーベルの指示により、フェリオとマーシエは部屋中の薬品を引っ掻き回して魔術の薬を作った。
 マーシエの腕の腐敗を遅延させるものだと言ったが、作っている最中も、彼女の腐敗臭がフェリオに吐き気を起こさせていた。そんな彼に気を使ってか、マーシエも手袋を何度も引き上げて臭いを立ちこめないよう、気を配っている。
「その紅い丸薬を三粒。次に黄色い薬品を、紅い丸薬が溶けて見えなくなるまで混ぜながら注ぐ。慎重によく混ぜるんだ。多すぎてもいけない」
 マーシエは慣れているのか、オーベルの指示を聞いてポンポンと薬品を混ぜ合わせていく。フェリオはいちいち確認しながら、マーシエのための薬を調合していた。

 慎重さを強いられる時間が過ぎ、マーシエの腕の腐敗を遅延させるという薬は出来上がった。どうやらこのオーベルの隠された部屋は、彼の魔術の実験室だったらしい。
 マーシエはフェリオの様子を伺いながら、両手の長手袋を外す。すると室内に凄まじい腐敗臭が満ちた。フェリオは思わず鼻と口を覆って顔を背ける。
「フェリオ、臭いだろう? すまない。部屋の外に出ててくれていいよ」
 マーシエはそう言いながら、出来上がった溶液に両手を浸す。するとブクブクと白い泡が立ちのぼった。
「……マーシエさんは……腕が腐ってても生きているんですよね?」
「ああ。あたしも両腕を落とされた時の出血で死にかけたからね。オーベルと同じで、魔術によって生きてる。オーベルがあたしを生かしてくれたんだ。あたしはオーベルの恩に報いるために、オーベルのためなら何だってする」
 かなりいびつに歪んだものではあるが、深い絆に結ばれた二人を見て、フェリオは何とも言えない気持ちになった。絆の固さは、まるで自分とピオラを見ているようだった。

 ピオラとの出会いは一年前、彼女が行き倒れていた所にフェリオがやってきて、たまたま持ち合わせていた食べ物を彼女にあげた事が切っ掛けだった。それ以来、ピオラはフェリオを実の兄のように慕ってくれていた。

 いつか恩を返す──ピオラとフェリオのように。フェリオとマーシエのように。マーシエとオーベルも同じだと感じた。誰もが相手に恩義を感じ、それを返したいと願っていた。
 恩人である女騎士がどのような姿であったとしても、フェリオの中で彼女に対する気持ちは変わらず、むしろ更に強くなっている事に気付いた。
「……僕、マーシエさんに助けてもらった事は忘れません。マーシエさんの役に立てるなら、オーベル王子の真似、一生懸命がんばります」
「……ありがとう、フェリオ」
 腕を溶液に浸したまま、マーシエは優しい笑みを浮かべた。

     4-3top5-2