LOST PRINCE

「死を意識するなんて何度目だろう?」
スラムで育った少年フェリオは、腕の中で冷たくなってゆく少女を抱きしめながら、そう思う。

豪胆な女性マーシエとの出会いが、
スラムの孤児であったフェリオの運命を大きく変える。


     2

 オーベルにまだ話があるからと、マーシエは引き止められる。彼女はフェリオを先に帰した。フェリオは自室に戻り、頷き過ぎて凝り固まった首筋を揉みほぐす。
「頷くだけでも難しいなぁ……」
 枕元の水差しからグラスに水を注いで口を潤す。ジョアンのお茶の誘いを無断で断ってしまったためか、部屋にお茶の準備が無かったのだ。なので仕方なく、水で喉を潤す。そして今日の事をぼんやりと思い出していた。

 ピオラの夢を見て、彼女に背中を押してもらえた。
 戦のための議場へ出席し、自分の考えた兵法を実践してもらう事になった。
 オーベルに自分の決心を再確認してもらえた。
 次の決起会のために、オーベルらしい仕種を教えてもらった。

 数えてみれば大した事もないが、彼にとって大きな前進となった。弱い心もまだあるが、今はやる気で満ちている。
「そうだ。マーシエさんに今度はいつ会えるか聞いてみよう」
 自分を気にかけてくれるマーシエと過ごす時間は、彼の心の大きな潤いだった。それゆえに、次はいつ会えるのか、別れ際に聞く事が習慣となっており、今日はオーベルもいたのでつい忘れていた。
「まだ王子の部屋かな?」
 フェリオはそっと部屋を抜けだして、オーベルの部屋へ向かう。そして錠前がまだ外れている事を確認し、そっと扉を開けて中へと入った。

 室内ではオーベルとマーシエがまだ会話していた。パーティションカーテンがあるので、フェリオの姿は見えていないはずだ。
 フェリオはマーシエに声をかけようとし、聞こえてきた会話に思わず黙り込んだ。
「フェリオを騙していくのも、今後難しくなるかもよ」
「かもな。あのガキは意外とお利口さんだからな」

『騙す? どういう事?』

 思わず息を殺して聞き耳を立てる。
「カーテン越しの謁見じゃ、そろそろ訝しむ兵士も出てくる。どうする気だい?」
「そうだなぁ……新鮮な体があれば、魔術で俺の首をすげ替える事もできるんだが」
「まさかフェリオの体を使おうってんじゃないだろうね?」
「それもいいかと思ってる。もうスラムのガキとは思えないほど、肉付きもよくなっただろう? それに成長過程にあるガキの体なら、この先長く使えるかもしれない」
 フェリオは自分の体を見下ろす。確かにもう、スラムの孤児だったとは思えないほど肉付きがよくなってきている。実際、この格好で外を出歩いても、誰も邪険に扱わなかった事実もある。マーシエがいたからとも考えられるが、もうスラムの孤児の気配は残っていないだろう。
「でも他人の体をすげ替えたって、すぐまた腐ってくるんじゃないのかい? あたしの腕みたいにさ」
「それは仕方ない事だ。屍操術にもできる事できない事の限界はある。マーシエは上手い事、そういった面も苦慮してあいつを連れてきたと思ったんだが、違うのか?」
「それがよぎったのはまぁ……違いないけどさ」

『マーシエさんも僕を騙してたの?』

 フェリオは愕然としつつも、足音を立てないように急いで部屋を出た。そのまま自室に飛び込み、ベッドの傍にしゃがみ込んだ。
『僕、殺されるの? 殺されて王子の体として使われちゃうの? だってマーシエさん、僕が王子の真似事をすれば、スラムの子たちは救われるって言ったじゃないか! 僕はそれを信じてやってきたのに……僕は騙されてたの?』
 ガクガクと震える両腕を掴み、フェリオは爆発しそうになった気持ちを懸命に堪えた。

 しばらくすると、水差しの水を交換しにジョアンがやってきた。そしてフェリオの様子を見て首を傾げる。
「フェリオ君、せっかくお茶を用意していましたのに、マーシエ様とどちらへおいでだったのです?」
 責める口調ではないが、彼女は残念そうにそう口にする。
「……? 気分でも悪いのですか? それならベッドに横になった方が……」
「ジョアンさんも僕を騙してたの? 僕を都合のいい時だけ利用するために、僕に嘘を吐いてたの?」
 ジョアンは黙り込み、視線を落とす。
「……ある意味その通りかもしれません。あなたをここへオーベル殿下の替わりとして引き留める事は、こちらの都合で誑かしていると言っても過言ではないかもしれませんね」
「じゃあ僕はいつ殺されるんだよ! 僕はスラムのみんなを助けられると思って必死だったのに、僕の気持ちを利用するなんて、そんなの酷いよ!」
 思わずフェリオは大声になる。しかしジョアンは彼の言葉に驚いたように目を丸くした。
「殺す? どういう事ですか? 私たちはフェリオ君の命を奪う気などありませんよ? ただ、殿下の身代わりとして預かっているだけで……」
 酷く狼狽したジョアンは、水差しを持ってフェリオに近付く。フェリオは身構えるようにジリジリと後退った。
「だって王子の首から下を、僕の体とすげ替える相談をしてたでしょう?」
「ちょっと待ってください。話が見えません。落ち着いて最初から話してください」
 水差しを小さなテーブルに置き、ジョアンは両手を体の前で合わせて首を傾げる。
「私はオーベル殿下を拝見した事がありません。ここに詰めているのは、オーベル殿下の身代わりをする者を世話するようにと仰せつかっただけで、つまりフェリオ君の世話係のメイドとしております。ですからフェリオ君を殺すですとか、嘘を吐いて騙すですとか、そういった事情は何も聞かされておりません」
「それ、嘘じゃないよね?」
「私はフェリオ君に何一つ、嘘は申しておりませんよ」
 まっすぐな視線に、彼はゆっくりと緊張を解く。真面目な彼女の視線に嘘はない。そう見て取れた。
「信じるよ、ジョアンさん」
「ありがとう、フェリオ君」
 にこりと優しく微笑むジョアンに、フェリオはまだ表情を強ばらせたままでいる。
「それでフェリオ君を殺すとか殺さないといった話ですが、一体どういう事でしょう?」
「マーシエさんとオーベル王子が話してたんだ。僕を殺して体を利用しようって」
「体?」
 先ほど、彼女がオーベルを見た事がないと言っていたのを思い出し、フェリオは少し戸惑ったのちに、今の彼がどのような姿であるか話す事にした。
「王子は魔術の力で、首から下が内蔵だけの姿で生きてるんだ」
「ど、どういう事ですか? ご容体が芳しくないとは伺っておりましたが……」
「首はあるんだけど、首から下の体も手足もなくて、首と内臓だけの恐ろしい姿で生きてるんだよ。屍操術っていう魔術だって言ってた。だから自分で動けなくて、王子の代わりにマーシエさんが立ち回ってるんだ」
 サァッとジョアンの顔色が変わる。片手を口元に当て、小さく首を振る。
「そ、んな……」
「それで、僕を殺して僕の体と王子の首をすげ替えるって相談をしてたんだ。スラムの孤児ならいなくなっても不都合がないっていうの、僕は別の意味だと思ってたんだけど、でも実際は殺して体を奪うつもりだったんだって分かって……怖くて……」
「わ、私もスラムの孤児に声を掛けた事は、マーシエ様や皆様が、フェリオ君をここに長期に拘束するためと、まさか孤児が殿下の影をしていると思われないだろうとお考えだと思っておりました」
「でも実際は違うんだよ。僕の体を奪い取るって相談、はっきり聞いたもの」
 二人は顔を見合わせ、無言となる。先に口を開いたのはジョアンだった。
「マーシエ様とオーベル殿下がお話しになっておられたのですね?」
「うん」
 ジョアンはコクリと頷き、フェリオの肩に手を乗せた。
「私には直接マーシエ様と刃を交えるような力はございません。ですからフェリオ君を守るために、今日から極力お部屋でお傍に寄せていただこうと思うのですが、フェリオ君は迷惑でしょうか?」
 彼女なりの最大限の助力なのだろう。確かにメイドの立場では、上の者に問い詰めるような意見を口にする事はしづらい上、まさか一介のメイドである彼女が、騎士に張り合える程の剣の達人という訳ではなさそうだ。
「ううん。ジョアンさんがいてくれると心強いよ」
「承知しました。申し訳ございません。このような事しか出来ず」
 ジョアンはふっと笑みを浮かべ、空っぽの水差しを手にした。
「ではこちらを置いたらすぐ戻って参ります。フェリオ君はいつも通り、私の指導を受けるという態度でいらっしゃってください」
「はい。待ってます」
 ジョアンは一礼し、部屋を出て行った。

 ふうとフェリオはため息を漏らす。そして先ほどのマーシエとオーベルの会話を思い起こしていた。
「マーシエさん……僕に嘘を吐いて騙してたなんて酷いよ……」
 事あるごとにフェリオを気にかけ、褒めてくれた彼女の姿は偽りの姿だったのか。彼女に対して猜疑心が芽生えたため、それを思うと胸が痛む。
 フェリオはベッドの端に座り、膝の上でぎゅっと両拳を握り締めた。

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