LOST PRINCE

「死を意識するなんて何度目だろう?」
スラムで育った少年フェリオは、腕の中で冷たくなってゆく少女を抱きしめながら、そう思う。

豪胆な女性マーシエとの出会いが、
スラムの孤児であったフェリオの運命を大きく変える。


     3

 明かり取りの窓の外が真っ黒に塗り潰されている。もう外は夜らしい。
 獣脂のランプの下で編み物をするジョアンと、文字の練習をしているフェリオがいる。ふと、ジョアンは編み物の手を止め、フェリオを優しく見つめた。
「フェリオ君。そろそろ夕食の準備をしてこようと思うのですが、席を外して大丈夫でしょうか?」
「えっ? う、うん……」
「大丈夫。何かあればすぐ戻ります。ベルでお呼びくださいな」
 ジョアンはベッドの枕元にあるベルを指差し、恭しく頭を下げた。フェリオは不安ながらも、彼女を素直に見送る。
 不安が拭い切れないフェリオは、彼女には常にいて欲しいと思うのだが、彼女も彼女の仕事がある。自分の我が儘ばかりを押し通す事はできない。それに彼女の主な仕事は自分の身の回りの世話だ。ならば余計に彼女を困らせるような事はしたくない。
 頭ではそう理解していても、不安な感情が、つい我が儘を衝いて出そうになる。それをなんとか思い留まり、彼はぐっと唇を噛み締めた。
 痛くはない。だがそうして口を噤んでいないと、ジョアンを呼び戻したくなってしまうのだ。甘えだとは分かっている。しかし、それでも、彼は。

 不安な感情を押し殺して、しばらく一人で書き取りの練習をしていたが、突然、扉が数回ノックされた。ジョアンかと思い、フェリオは急いで扉を開ける。
「ジョアンさ……っ!」
 扉の向こうにはマーシエがいた。フェリオは息を飲み、数歩後退する。
「夕食前に悪いね。ちょっとあんたの顔が見たくてね」
 フェリオの異変など気付かないかのように、マーシエは遠慮無く室内へ入ってきて、先ほどまでジョアンが座っていた椅子に腰を下ろす。
「明日は決起会だ。しっかりオーベルを演じなよ」
 亜麻色の髪を掻き上げ、マーシエは目を細めた。だがすぐに表情を固くする。フェリオの異変にようやく気付いたらしい。
「どうした? 何かあったのか?」
 いつもと何一つ変わらないマーシエの態度に、フェリオは徐々に苛立ってくる。
 つい先程まで、オーベルと密談していた内容を知っているんだとばかりに、眉根を寄せて口を噤んでいる。
「フェリオ?」
 これ以上黙っていても仕方がない。ジョアンには悪いがここを逃げ出したいと、フェリオは体当たりで彼女を押しのけられるようにと、体を充分に屈めた。
「フェリオ? どうして黙ってるんだい?」
「……えいっ!」
 思い切り床を踏み切り、フェリオは彼女に体当たりした。そのまま扉から外へ出て、前に彼女と外へ出た時の道順をなぞる。
 とにかく外へ──逃げ出さなければ。

 夢中で走り、だがすぐ背後を誰かを追いかけてくる。むろんマーシエだ。
「フェリオ!」
 スラムでは何度も孤児狩りから逃げてきたのだ。主に、普通の孤児にはない知略を活かした逃げ方ではあったが、足にもそこそこ自信がある。フェリオは夢中で走った。
 外へ出るための梯子を見つけ、それに飛び付くように足を掛ける。急いで登ろうとしたが、腰を誰かに掴まれた。マーシエだ。
 足に自信があったつもりだったが、騎士であるマーシエは彼より健脚だったようだ。
「どうしたフェリオ! なぜいきなり逃げ出すんだ?」
「僕を騙してたくせに!」
 マーシエは振り解こうと、フェリオは大きく身を捩る。マーシエも振り解かれまいと彼にしがみ付く。
「騙す? どういう事だ? あたしはあんたを騙してなんかないよ!」
「嘘だ! 王子と僕を殺そうって相談、してたじゃないですか!」
「殺……!」
 マーシエが息を飲む。
「夕方の話、もしかして聞いてたのかい?」
「聞きました。僕を殺して体を王子のものにしようって相談、してたでしょう?」
 マーシエがフェリオの体を離し、気まずそうに眉を顰める。フェリオはキリリと唇を引き結び、彼女をまっすぐに睨み付ける。
 騎士である彼女に、腕力では絶対に勝てない。だが拒絶の意志は貫きたかった。ゆえに、懸命に心を奮い立たせた。
 マーシエとオーベルの思い通りにはならないのだ、と。
「全部嘘だったんだ。僕が王子のフリをすれば、スラムのみんなを助けられるとか、全部嘘だったんでしょう? 最初から王子の体を蘇らせるための、魔術の材料にするつもりだったんでしょう?」
「フェリオ、それは違う」
「違うもんか! マーシエさんだって『もう騙すのは難しい』って言ってたでしょう? それって最初から僕を騙して連れてきたって事じゃないか!」
「あたしは! あたしはあんたを騙すつもりなんて全くなかったんだ! 本当にオーベルの代理として連れてきただけで、それでいきなりオーベルからあの話を聞かされて、あたしも驚いてるんだよ。信じておくれ」
「信じられないよ!」
 即答し、彼は首を振った。
 マーシエの事は信じていた。いろいろ気遣ってくれる彼女の事が、姉や保護者ではなく異性の一人として好きになりかけていた。しかし自分を騙していたと知った今、彼女への気持ちは、好意とは逆のものに変わろうとしている。
「あの会話を聞いていたら、どれだけ弁解しても信じてもらえないかもしれないけど、あたしはオーベルの企みには心では反対してるんだ。フェリオ、あんたを失いたくない」
「だってマーシエさんはオーベル王子の言葉なら、何でも言う通りにするんでしょ? それなのに心では反対するだなんて、そんな身勝手な都合、僕は信じられないよ……」
 一度深く刻まれた猜疑心は、やすやすと払拭できるものではない。
「確かにあたしはオーベルのためなら何でもする覚悟で、いろいろとやってきた。デスティンに近しい関係の子供を殺すような汚い仕事もあった。でもあたしは、フェリオを騙して殺そうだなんて、一切思ってないんだよ。フェリオ、あんたが好きだから。あんたの成長が嬉しいから」
 マーシエの必死の説得に、フェリオは彼女の心の揺らぎを感じ取っていた。まだ彼女は迷っているのだと、はっきり分かった。しかし──
 オーベルの言う通り、フェリオを殺す事。
 自分が選んで連れてきたフェリオを守りたい事。
 彼女から自分に向けられる言葉や視線はどれも熱を帯びていて、信じるに値するだけのものを秘めている。だからこそ、オーベルのためにフェリオの体を奪うという言葉も、素直に信じてしまえるのだ。それが……恐ろしい。
「僕には何の力もない。僕なんて殺すのは簡単ですよね。スラムの孤児は僕だけじゃない。すぐ身代わりが見つかるだろうし」
「フェリオ以上の子供なんて、あたしに見つける自信はないよ。フェリオ、あんな相談をオーベルから受けて、黙っていてすまない。その事実は謝る。けど、本当にあたしはフェリオを騙したりしない。信じておくれ」
「どうやって信じろって言うんですか? 僕ははっきり聞いたのに」
 憂いを帯びた視線を落とし、彼女は口元に手を当て、考え込む。身の潔白を訴える言葉を探しているに違いない。そして結論が出たのか、視線を落としたまま、彼女は口を開いた。
「あたしはオーベルを裏切る事はできない。でもフェリオを騙しているつもりもない。それしか言えない。この場で潔白を証明する事はできない。あたしの心情を裏付けるための、なんの証拠も提示できない」
「そんな言葉で僕が納得するとでも思ってるんですか?」
「納得できないだろうね。でもあたしには、あんたもオーベルも大切な人なんだ。どちらかを選ぶなんてできない」
 ふと、フェリオはマーシエの手を見た。腐敗しかけた腕を隠す、長手袋。
「……王子には腕をもらった恩義があるから、ですか?」
「それは……そう、かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」
 曖昧な言葉を返し、マーシエは途方に暮れた表情でフェリオを見つめた。

 その時だ。通路の奥からジョアンが必死の形相で駆けてきた。そしてフェリオとマーシエを見つけ、慌てて二人の間へ割って入る。
「マーシエ様! フェリオ君へ危害は加えさせませんよ!」
 フェリオを守るように両手を広げ、彼の姿をマーシエの視界から隠す。マーシエが驚いた様子でジョアンを見つめた。メイドは騎士から、孤児の少年を守ろうと、必死に身を呈して彼を庇ってる。
「ジョアンも知ってるの?」
「全部ジョアンさんに話しました」
 マーシエは「そうか」と呟き、視線を落とした。何かをブツブツと呟きながら、片腕をぎゅっと掴む。
「どうかお答えください。マーシエ様は、フェリオ君から聞いたような凶行をなさるような方ではないとお見受けしておりました。なのに、どうしてそのような、狂気めいた事を企むのです? 陛下のご命令だからですか?」
「ジョアン、信じて。あたしもオーベルから聞いて驚いたんだ。あたしはフェリオを騙したつもりはないし、どうにかしようなんて思ってない。ただ、オーベルを裏切る事もできない。自分がどうすればいいのか分からないんだ」
 両腕を広げていたジョアンが、スッといつものように体の前で両手を合わせた。
「フェリオ君の目を見て、嘘を吐いていないと仰る事はできますか?」
「それはできる。フェリオ、あたしはあんたに嘘は言ってない」
「結構です。では殿下のお言葉の件はどうなさるのか、フェリオ君にはっきりと宣言してください」
 フェリオはジョアンを見上げ、マーシエは視線を落とした。交錯する視線。
「あたし、は……オーベルを裏切れない。どうすればいいのか……分からないんだ。ジョアン、あたしはどうすればいい?」
「私はしがないメイドです。マーシエ様のような立派な騎士様に申し上げる言葉を持ってはおりません」
 ふらふらと、マーシエは壁に寄り掛かった。そして縋るようにフェリオを見る。彼はまだ険しい表情で彼女を見ていた。
「僕は王子の影をしているだけで、王子と対等に天秤にかけられるような身分じゃないのは分かってます。でもマーシエさん。今すぐ僕と王子、どっちかを選んでもらわないと僕だって困ります。だって僕は何度も死にかけたし自分で死のうとした事もあるけど、今はピオラたちのために死にたくないし、スラムのみんなを救いたい。だったら、王子の言うとおり僕を殺すのか、それとも王子の言葉を撥ね退けるのか、どっちか選んでもらわないと、僕はここにいる事もできない」
「フェリオ君の仰る通りです。マーシエ様。ご決断を」
 小柄な少年と母性を滲ませたメイドに押し迫られ、女騎士はますます困惑する。
「待って……待ってってば!」
 マーシエはガリガリと頭を掻いて決断を引き伸ばす。そしてついには、喉の奥を詰まらせながら、泣き出してしまった。
「あ、たしは……どっちかなんて……」
「マーシエさんが答えてくれなきゃ、僕は今すぐここから逃げるよ。だって死にたくないもん。ジョアンさんが手助けしてくれるなら、僕は逃げられる」
「私はフェリオ君の味方です」
「フェリオ……ジョアン……」
 ジョアンはフェリオを逃がそうと、そっと背後へ手を伸ばしてフェリオの体を押す。フェリオはコクと頷き、梯子に手足をかけた。

 涙で頬を濡らしたマーシエが顔を挙げる。そしてフェリオをじっと見つめた。
「……フェリオを……選ぶよ」
「嘘ではございませんね?」
 ジョアンは鋭い視線で念押しする。
「嘘じゃない。あたしはフェリオに、今後誰も指一本触れさせないと誓う。だけどオーベルにはまだ何も言わないでおくれよ。オーベルはあたししか頼れないんだ。あたしはフェリオの味方のまま、これからもオーベルの手助けをする。オーベルに嘘を吐いて、この先、出来る限り彼を怒らせないように振る舞う。これじゃ、駄目かな?」
「それじゃ、僕はいつでも殺せるって言ってるのと同じじゃないですか」
「あたしにはフェリオもオーベルも大切なんだ。どちらかを選べなんて……」
「コウモリですね」
 ジョアンは嘆息しながら吐き捨てた。
「獣にも鳥にもなれないコウモリです。今のマーシエ様は」
 彼女の抑揚のない声がきつくマーシエを打ちのめす。マーシエは口元を押さえて目を潤ませた。
「私はフェリオ君を守ります。マーシエ様からも」
「あたしだってフェリオを守るよ、オーベルからもアスレイ師からもデスティンからも」
 マーシエはジョアンに負けまいと声を張り上げる。ジョアンがフェリオを振り返り、首を傾げた。
「フェリオ君。ひとまずここは私に免じて、マーシエ様のお言葉を信じてみてはいかがでしょう? マーシエ様は本当にあなたを傷付けるつもりはないようですし、けれどオーベル殿下を裏切れないといった、微妙な立場にございます。すぐに決断するのは難しいかと存じます」
「……ジョアンさんがそう言うなら……」
 フェリオは梯子から手を離し、渋々といった様子で、昂ぶった感情を抑える。今、彼が信頼しているのはジョアンだけだった。そんな彼女の言葉だ。フェリオも素直に聞く耳を持っている。
「……ありがとう、フェリオ。オーベルの事は……なるべく早く決着をつける。だから今は……」
「うん……」
 マーシエの方を見ず、フェリオは一度だけ頷いた。
「ではフェリオ君。お部屋に戻りましょう」
「はい、ジョアンさん」
 ジョアンに隠されるように、フェリオはマーシエの隣を横切った。
 一人取り残されたマーシエは、膝をついて嗚咽を漏らす。
「あたしは……どうすればいいんだよ……」

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