天球儀

   優しい鬼の昔語り

     1

「そんななまくらが、奴に通用すると思うたか!」
「すみません、師匠!」
 鬼と対峙する二人の男。一人はまだ若く、一人は初老の男だ。

 鬼は巨大な体格を活かし、若い男──剣客を追い詰める。剣の腕に自信を持って挑んできた若い剣客だが、彼は鬼の実力を完全に見誤っていた。
 最初、実力差は拮抗しているかと思われたが、ジリジリと押され──いや、鬼は若い剣客の青臭い実力を暇つぶしとばかりに弄び、そして森の奥にある廃村まで彼を追い詰めたのだ。
 もはやこれまで、と、若い剣客が腹を括った矢先、凛とした声に叱責されて眼を開いた。
 キィンと視界に、光が一閃する。
「ぐあっ!」
 鬼は光に怯み、数歩後ろへたたらを踏む。そして──

 初老の男が一閃した妖刀は、妖しい輝きを放って鬼の眉間を斬り裂いた。そしてその年令からは想像できないほど、鮮やかな身のこなしで、初老の男は刃を返した。
「ぐ、う……光(かけら)が己(お)れの中に……」
 鬼の視界は刃の白と、流れ出た紅(あか)で染め尽くされた。

     2

 賑やかな歌声は、ひと気のない廃村へと向かっている。先頭にはススキを持った勝ち気そうな小僧。その後ろには、風呂敷包みを抱えた少女、それから前掛けをした鼻を垂らした幼い少年と続く。
「おーい、鬼ー! 今日もお話、聞かせておくれよー!」
 ススキを振りながら、小僧は目的の人物(おに)を見つけて、ススキを更に大きく振り回す。
 子供たちに気付いた鬼は、隻眼の目を細めて肩を震わせた。子供たちの姿がおかしいらしい。
「毎日毎日飽きもせず、己れのところにやってくるなんて、物好きなガキたちだ。己れが怖くはないのか?」
「鬼は怖くないよ! だって鬼はいい鬼じゃん!」
「今日はお団子持って来たよ。一緒に食べようよ」
「鬼の話は面白いんだもん!」
 子供たちはニコニコと笑いながら、鬼の周囲を囲むように腰を下ろす。鬼は彼らを追い返す事を断念して、ドシリと自分も腰を下ろした。
「ねぇ、鬼。あんこと、きなこと、よもぎと、ごま。どれがいい?」
 少女は抱えていた包みを開き、鬼の前に団子を差し出した。
「お前らが先に選びな。己れは余ったやつでいい」
「わーい!」
 小僧と少年、は少女の持つ包みに手を伸ばし、思い思いに団子を取った。少女も少し迷って、ごま団子を片手で取る。そして一つ余ったよもぎ団子を、鬼にスッと差し出した。
「まーた己れがよもぎかよ」
「えー? 余ったやつでいいって、鬼が言ったんじゃん」
「よもぎはオトナの味だからなぁ。お前らにゃ、早すぎるんだよ。母ちゃんに、次は全部あんこにしてくれって、言っときな」
 鬼はククと笑ってよもぎ団子を頬張った。

「それでさ! 早く鬼の話を聞かせておくれよ!」
「さぁてなぁ……己れは語り部じゃないんだから、そんなに面白い話は知らんぞ」
「そうだ! 目! 鬼は片目でしょ? なんで片目になっちゃったのか、その話が聞きたい!」
 鬼は潰れた隻眼を指先で撫で、フゥと小さく息を吐いた。
「こいつはなぁ……」

     3

 これはまだ己れの目が、両方揃っていた時の話だ。
 己れは好き勝手に酒を飲み、ヒトを喰らい、悪さばかりする悪い鬼だったんだ。いや、悪いとも思ってなかったな。己れは己れの自由に毎日を過ごしていた、勝手気ままな鬼だった。
 そんな己れを退治してやろうとでも思ったのか、ある日一人の若い剣客が己れのところへやってきた。「覚悟しろ」と、青臭い罵声を撒き散らしながらな。
 一目見ただけで、そいつは己れとは比較にもならないヒヨッコだと気付いたさ。だからちょっとした暇つぶしに遊んでやろうと、あえて茶化すように相手をしてやったんだ。
 若い剣客は自分が優勢だとでも思ったのか、だんだん調子に乗って己れをこの廃村へと追い詰めてきた。いや、己れがそう仕向けたんだがな。
 己れほどの実力があれば、劣勢を装って好きな場所に誘導するなんて、簡単な事だったさ。
 いい加減に剣客の相手も飽きてきたところだった。だから己れは、そいつにトドメを差して喰らってしまおうと、奴の刀を掴んで弾いた。
 それまでは自分の勝利しか見えていなかったであろう剣客は、一瞬で青い顔になり、全身を強張らせてその場に立ち尽くしていた。己れは自分の勝利を確信したね。たった腕のひと振りで、勝敗を逆転させてやったんだ。愉快で仕方無かったさ。
 さぁて、どこから喰ってやろうかと舌なめずりしながら剣客に近づいた時だ。
 廃屋の屋根の上から、一筋の光が降ってきたんだ。

 光は叫んだ。
「そんななまくらが、奴に通用すると思うたか!」
「すみません、師匠!」
 若い剣客とは違う、頭に白いものが混じった初老の男が、ギラギラと輝く太刀を手にして己れに斬りかかってきたんだ。
 あまりに突然だったから、己れは奴の斬撃を受け止め切れなかった。眉間に一撃を食らい、たたらを踏んだ。
「構えろ、不肖の弟子!」
「はい!」
 初老の男と若い剣客は、揃って刀を構えて己れと対峙する。そしてこの時、分かった。初老の男が持つ太刀は、妖や鬼を斬るために打たれた妖刀であると。
 逆転したと思っていた形勢は、またもや逆転された。
 初老の男は、年齢にそぐわぬ軽やかな足取りと太刀さばきで、己れに小さな傷をつけてくる。そして大きく踏み込んだ瞬間、己れの視界に白い光が一閃したんだ。
「ぐあっ!」
 激しい痛みが己れの視界を奪う。先ほどの白と、己れの中から流れ出る紅い血が、己れの視界を染め尽くしていた。
「ぐ、う……光が己れの中に……?」
 不思議と、恐怖や嫌悪は感じなかった。ただ、己れに降り注いだ光は綺麗だなぁと、純粋にそう思ったんだ。
 光は俺の視界を貫き、同時に耐え難い痛みを己れに与えた。

「むぅ……! ワシの妖刀が……!」
「今なら僕の刀でも!」
「無理じゃ! そのなまくらでは、鬼の皮膚は斬れぬ」
 奴らの会話と己れの目に突き刺さる痛みで、状況を理解した。己れは片目を抉られていたんだ。
 残ったもう片方の目で見れば、初老の男が持つ妖刀の切っ先が折れて失くなっている。己れの厚い皮膚を貫き切れず折れたのだと、瞬時に分かった。だが折れた切っ先は見当たらない。
「鬼よ」
 初老の男はやや緊張した面持ちで、だが口元に微かな笑みを浮かべて己れに話しかけてきた。
「ワシの妖刀は妖(あやかし)封じ。貴様の体内にはワシの妖刀の切っ先が突き刺さっておる」
「なん、だと?」
「ワシの妖刀を体内に宿したままでは、貴様はもう、鬼の神通力を使えないだろう」
 己れは目の前が真っ暗になった。もう好き勝手に生きられないのだと、この者たちにここで殺されるのだろうと、初めて恐怖というものを抱いた。
「傷口を抉ろうとも、もうワシの妖刀の切っ先は取り出せんよ。勝負あったな、鬼よ」
「おのれらあああああ……! 取り出せ! 妖刀を己れの中から取り出せ!」
 己れは牙を剥き、己れを追い詰めた奴らに凄む。しかし初老の男は薄ら笑っていた。
「ここで貴様を殺しても何も解決はせん。鬼の神通力を使えぬまま、生き永らえてみよ」
「師匠! 鬼を見逃すというのですか? こいつは今までたくさんの人を喰らってきたんですよ?」
「鬼が鬼として振る舞えんようになったのだ。こやつには一番堪えるだろうよ」
「取り出せ! 己れの中の……ぐう……」
 潰れた目の奥で、妖刀のかけらが疼く。己れはその場に蹲り、潰れた目を掻き毟った。
「ワシらに妖の医者の真似事はできぬよ。鬼よ。数年後、改心しておれば、切っ先を取り出す方法を探してやろう。ゆくぞ、不肖の弟子よ」
「は、はい……」
「ま、待て! 待たんか!」
 奴らは動けぬ己れをその場に残し、抜き身の太刀を下げたまま去っていった。

     4

 鬼の話をじっと聞いていた子供たちは、呆けたようにただただ鬼を見上げていた。
「……ねぇ、鬼。鬼は悪い鬼だったの?」
「そうさ。いい鬼なんているもんか」
「でも鬼はいい鬼だよ? おいらたち、喰われてないもん」
「……今はすっかり落ち着いちまったなぁ……」
 小僧はきなこで汚れた口を開き、ペシペシと鬼の膝を叩いた。
「鬼の中に、おししょーさんの刀があるから、鬼は優しい鬼になったの?」
「優しい?」
 鬼は不思議そうに首を傾け、そしてククと肩を震わせた。
「己れは優しくなんてないさ。そうだなぁ……さっきの団子くらいじゃ、腹は膨れねぇ。己れの気が変わったら、お前らなんて頭からバリバリ喰っちまうかもな」
 鬼の言葉を聞き、子供たちは「キャー!」と悲鳴をあげながら、慌てて立ち上がってひと塊になった。そして大急ぎで廃屋を逃げ出す。
「己れはお前たちとは違うんだから、もう来るなよ!」
 鬼は隻眼を細めて手を振る。
「はーい! でもまた昔話聞かせてくれな! またねー!」
「こらこら。お前ら、己れの話を聞いてないだろう」
 活気に満ち溢れた子供たちは、大きく手を振って鬼のいる廃屋から立ち去った。皆、一様に笑顔だった。
 喰らうと言われたが、本気にしていない証拠だ。そして、鬼の優しさを見抜いている笑顔だ。
 まもなく夜が訪れる。子供たちはあたたかい家族の待つ村へ帰ったのだろう。
 賑やな一時が終わり、鬼は廃屋の中へと戻った。
「……光(やいば)は己の中で溶け、そして心を融かしてくれた。ヒトと過ごすのも悪くないものだ」
 土間の隅にある藁をどけると、餌として獲ってきた鹿肉が無造作に置かれていた。鬼は鋭い爪で肉を適当に切り裂き、その一切れをベロリと口へ運ぶ。
 そしてふと、自分の片目と神通力を奪った男たちのことを思い出した。子供たちに話して聞かせたせいで、久しぶりに鮮明に記憶が蘇ってきたらしい。
「潰れた目の中には折れた妖刀のかけらがまだ残っている。きっともう、どうやっても取り出すことはできないほど、かけらは己れに同化してしまっているんだろうなぁ」
 鹿肉を喰らいながら、鬼は見えない目で遠くを見つめた。
「この穏やかさが心地いいなんて、あいつら驚くだろうなぁ。ハハ」
 穏やかな笑みを浮かべ、鬼はもう一口、鹿肉を頬張った。